* 当たり前のカトラリー

** 当たり前が傷つけた日 **

2025年の夜。

「もう無理——」

つぶやいた声は、
湯気の立つフライパンの音にかき消された。

朝5時起きでお弁当作り。

こどもを起こして、
着替えさせて。

朝ごはんを食べさせて、
食器を片付けて。

歯磨きをさせて、
保育園へ。

そのまま出勤。

仕事では小言を言われ、
気を遣いすぎてぐったり。

急いでお迎えに行って、
買い物をして、帰宅。

休む間もなく、
夕飯の準備にとりかかる。

けれど、
こどもがぐずぐずして進まない。

ごはんをひっくり返され、
ジュースはこぼされ。

テレビも大音量、
洗濯物は山積みのまま。

「もう無理……」

ため息が、
あふれる涙と一緒に
こぼれた。

ふと、
私の顔をのぞき込んだこどもが、
小さな声で言う。

「ママ、ハンバーグたべたい……」

冷蔵庫には材料もないし、
そもそも、
作る気力なんて残っていなかった。

「じゃあ、今日は外に食べに行こうか」

そう言って、
私はコートを羽織り、
こどもの手を引いた。

夕飯どきのファミレスは、
思ってた以上に混み合っていた。

家族連れ。
会社帰りのサラリーマン。
学生のグループ。

ざわざわとした店内に、
こどもの笑い声がまぎれて、
私は少しほっとした。

「おいしい?」

こどもは、
口のまわりに
ケチャップをつけながら
大きくうなずく。

「来てよかった……」

そう思ったのも
束の間だった。

「ちがうのがいいー!!」

突然、
こどもがスプーンを落とし、
大声で泣きだした。

会話が止まり、
ざわついていた店内が、
一瞬静まり返る。

その静けさに、
私の鼓動だけが、
やけに大きく響いた。

「ごめんなさい…すみません…」

小さく頭を下げながら、
必死であやしていると、

隣の席に座る
老夫婦の会話が耳に入った。

「今どきのお母さんは、大変ねぇ」

「便利なものが増えたのに、
 余裕がなさそうよね」

老紳士が、
懐かしむように笑う。

「昔は、母親が全部やってたよ。
 料理も掃除も、しつけも。
 できないなんて言葉はなかった」

老婦人も、
静かに続けた。

「母親がちゃんとしていれば、
 こどもは外で泣いたりしなかったもの」

「今も昔も、母親って言うのは——
 頑張って当たり前なのよ」

悪意なんてなかったと思う。

だけどその言葉は、
まるで私が
「まだ足りない」と、
「甘えている」と、
突きつけられたようだった。

こどもが、
まだ泣き止まないのを口実に、
私は会計を済ませ、
そっと店を出た。

夜風が冷たい。

さっきまで
明るく見えていた街の明かりは、
暗く、そして滲んで見えた。

私は、頑張りが足りていないのかな。

でもこれ以上、
何をどう頑張ればいいんだろう。

握り返された小さな手だけが、
崩れそうな私の心を、
かろうじて支えていた。

** 苦しみの正体 **

家に帰り、
こどもを寝かせたあと。

暗い部屋で、
私は天井を見つめていた。

老夫婦の言葉が、
何度も頭の中でよみがえる。

『母親は頑張って当たり前』

『昔はもっとできていた』

責められたわけじゃない。

怒られたわけでもない。

それなのに、
どうしてこんなに苦しいんだろう。

……あぁ、そうか。

「できていない私」
「足りない私」

その前提が、
もう心の中にあったんだ。

今日一日を思い返す。

朝から晩まで、
休む間もなく動いていた。

こどもを生かして、
笑わせて、
泣き止ませて、
連れて帰ってきた。

それでも私は、足りない?

ううん、そんなことない。

もしかしたら、
私が苦しいのは、
『私がダメ』だからじゃない。

『そう思わせる常識』の中に、
長く立ちすぎていただけなのかもしれない。

** 変わるあたりまえ **

時代は変わった。

夫婦共働きが当たり前になり、
「母親だから」という理由だけで、
すべてを背負う暮らしは、
もう現実には合っていない。

便利になったはずの世の中で、
こどもと向き合う時間は、
いつの間にか細切れになり、

誰にも頼れず、
ひとりで抱え込む夜が増えた。

今は、こどもが泣くことは
「悪いこと」じゃないと、
少しずつ分かってきた。

泣くのは、
わがままだからじゃない。

しつけが足りないからでもない。

言葉にできない気持ちを、
身体いっぱいで外に出しているだけ。

不安も、悔しさも、疲れも。

泣くことで、
ちゃんと感じて、
ちゃんと流している。

泣かないこどもが「いい子」なのではなく、
泣けるこどもは、
安心して感情を出せているということ。

そう思えたとき、
あの夜、必死に泣いていた
わが子の姿が、少しだけ違って見えた。

** 私の当たり前 **

常識は、
もともと人の手でつくられたもの。

誰かの暮らしを守るために。

安心を届けるために。

きっと誰かが、
誰かのために。

「これがいい」と願って、
育ててきたもの。

でもそれが、

誰かを縛るものになったとしたら。

できない人を笑う道具になったとしたら。

それはもう、
やさしさじゃない。

だったら、私は選びたい。

こどもにとって。

そして、今日の私にとって。

やさしいほうを。

あたたかいほうを。

「こうしなきゃ」じゃなくて、
「これがいいね」って笑えるほうを。

『当たり前』という言葉が、
刺して傷つける刃ではなく、

すくって背中を押す勇気になるように。

そんな常識(みらい)を、
私たちで育てていけたなら——

** 当たり前が支えた日 **

2045年の夜。

「もう無理——」

声に出すことすらできない想いを胸に、
私は3歳の息子の手を引きながら、
街のファミレスへと足を運んだ。

朝からずっと、
何ひとつ思い通りにならなかった。

仕事も、
家のことも、
こどもも。

帰ってから夕飯を作る気力もなかった。

ワンオペ育児の毎日は、
自分でも気づかないうちに
体力も、心も削り取っていく。

せめて今日は——
誰かが作ってくれたご飯を、
誰かが片付けてくれるだけでも救いだった。

店内は、
夕飯の時間帯で混み合っていた。

「静かにしてね」
「騒がないでね」
「いい子にしててね」

そう呪文のように言い聞かせながら、
緊張したまま席につく。

こどもはおとなしく、
キッズプレートを食べている。

「よかった……」

胸を撫でおろしたその瞬間だった。

「ゔえぇぇぇぇん!」

大声とともに、
こどもがフォークを落とした。

料理が服やテーブルに飛び散り、
イスを揺らして泣き始める。

一瞬で空気が変わった気がした。

まわりの視線が突き刺さる。

慌ててなだめようとするけれど、
泣き止まない。

そのとき、
隣の席の青年が声をかけてきた。

「大丈夫ですか?
 僕にできることがあれば、
 何でも言ってください」

顔を上げると、
やさしい目をした青年が、
こちらを見ていた。

隣の同い年くらいの女性も、
ほほえんで言う。

「小さい子って、
 突然スイッチ入りますよね。

 うちの甥っ子も、
 おはしで机叩いたかと思ったら
 急に泣き出して…」

「回転寿司で3皿飛ばしたとかね」

「それ、笑えないやつ……」

ふたりのやり取りに、
思わず肩の力が抜ける。

青年は続けた。

「母がよく言っていたんです。
 『困っているママを見かけたら、
  必ず声をかけなさい』って」

「実際に母も昔、
 同じような場面で冷たい目を向けられて、
 泣きながら帰ったことがあったそうなんです。

 だから僕も、
 もしそんな場面があったら、
 絶対に力になりたいって思っていたんです」

「ありがとうございます……」

私はうつむきながら、
こぼれそうになる涙をこらえた。

「そんなことないですよ。
 僕にとってはこれが『当たり前』なんです」

その言葉を聞いた瞬間、
胸がぎゅっと締めつけられた。

隣の女性も、
テーブルを拭きながら
笑顔で話しはじめる。

「私も母にそう言われて育ちました。
 母の場合は、ブログで読んだらしくて、
 『常識は自分で変えていい!』って言って、
 自分に都合のいい常識ばっかり作って(笑)

 でも、そうやって
 笑って生きてる母の姿を見て、
 私は救われたんです」

そのとき、
別の席からも声がかかる。

「おしぼり、よかったら使ってください」

振り向くと、スーツ姿の男性が差し出している。

「みてみてー、これかわいいでしょー」

斜め前の学生のグループは、
小さなぬいぐるみを振って、

泣いているこどもを
あやしてくれている。

窓際の老夫婦は、
静かにうなずきながら、
あたたかいまなざしを向けてくれていた。

その一つ一つの優しさに、
抑えていた涙が、ついにあふれた。

「……来てよかった」

やがて、
こどもは泣き止み、
店員さんにもらった小さなおもちゃを片手に、
笑顔を取り戻す。

帰る頃には、
すっかりご機嫌になって、

「ばいばい~!」

愛嬌を振りまく姿に、
周りのみんなが思わず手を振り返す。

夜風は、どこかあたたかかった。

息子は、
もらったおもちゃを大事そうに握りしめ、

街明かりの中を
木の葉と一緒に
ぴょんと跳ねていく。

さっきまで暗く見えていた街の灯りは、
今は優しく、
私たちを包んでくれているようだった。

「ねぇママ、
 またあのごはん屋さん行こうね!」

息子の声に、
思わず笑みがこぼれる。

『頑張って当たり前』じゃなく、
気づけば支え合うことが、
当たり前になっていた未来。

その未来はきっと、
こうして私たちの手の中に育っていく。

  • この記事を書いた人

Robü


子育てを頑張る君へ――

「Trace of Mana」は、
私が君に贈る、
最初で最後の物語。

冷たい社会。
上手くいかない毎日。
ふいに訪れる孤独。

この物語は、
君に答えを教えるものではない。

でも、君ならきっと、
気づく事ができるはず。

君の中にある『それ』に。

さあ、行こう。
君自身が感じて歩く、
君だけの冒険の旅へ。


* はじまりのTrace
※「はじまりのTrace」には、命や心の限界に触れる描写が含まれます。
読むのがつらいと感じたら、無理に進まなくて大丈夫です。

-Trace(トレース)