幸せの形は、
人それぞれだというけれど、
私には、
いつも同じ形に見えていた。
手を伸ばせば届きそうで、
決して届かない形。
幸せは、虹のような形をしている。
追いかけても、近づけない。
掴もうとしても、掴めない。
どんなに努力しても。
どんなに結果を出しても。
誰より早く走っても。
誰より多く手に入れても。
指先をすり抜けていく。
だから私は、
幸せを手に入れることができない。
** ひとつ **
部活のない、
テスト期間の帰り道。
乾燥した空気は澄んでいて、
制服の隙間から入る風が、
肌に触れるたびに冷たい。
吐く息は白くほどけ、
アスファルトの上に
長く影が伸びていく。
たまたま一緒になった、
仲の良い先輩と並んで歩く。
他愛のない話をしていると、
「腹減ったー」
そう言って、
先輩はバッグの中から
透明の袋を取り出す。
中には、
ひとつのコッペパン。
袋を開けながら、
「半分食うか?」
そう言って、
先輩はパンを半分にちぎりはじめた。
「これ、うまいから食ってみ!」
笑顔で差し出されたそれを、
私は少しだけ遠慮しながら受け取る。
不揃いにちぎられた断面。
そこからのぞく、あんことバター。
ほんのり、あたたかい。
マフラーを少し下げて、
ひと口かじる。
なめらかなこしあんの甘さ。
あとから広がる、バターの塩味。
それを包む、やわらかなパン。
寒さでこわばっていた頬が、
ゆっくりと緩むのがわかった。
「うまいべ?」
「はい!」
それだけのやり取りなのに、
胸の奥が、
じんわりとほどけていくのを感じた。
———あの日の帰り道から、数日後。
私はどうしても、
もう一度あの味を確かめたくなった。
学校近くの店に寄る。
透明の袋に入った、
あの日と同じコッペパン。
今度は、丸ごとひとつ。
半分じゃない。
全部、自分のもの。
袋を開ける。
ちぎる必要はない。
そのまま、かぶりつく。
なめらかなこしあん。
あとから広がる、バターの塩味。
やわらかなパン。
味も、同じはずだった。
でも——
あの日のあたたかさは、
どこにも見つけられなかった。
胸は、静かなまま。
美味しい。
けれど、ただそれだけだった。
飲み込んだあと、
なぜか少しだけ、喉の奥が乾く。
どうしてだろう。
全部あるのに、
あのときよりも、足りない味がした。
私はその理由を知らないまま、
パンをひとつ、
静かに食べ終えた。
** ふたつ **
気が付けば、
私はもう大人になっていた。
学校を卒業して、就職して、
結婚して、子どもが生まれて、
体を壊して、転職して。
思い描いていた未来とは、
少し違う形で。
それでも、
前に進むしかない日々だった。
朝は早く、夜は遅く、
自分のことは後回し。
立ち止まる余裕なんてなかった。
あの帰り道の記憶は、
いつの間にか、
心の奥に沈んでいた。
忘れていたのかもしれない。
いや、思い出す余裕が
なかっただけかもしれない。
けれど。
全部あるはずなのに、
どこかが満たされない感覚だけは、
消えずに残っていた。
名前のつかない、
小さな渇きのようなものが、
まだ胸の奥に。
———ある日のこと。
仕事の帰りに立ち寄ったスーパーで、
好きなお菓子の新商品が目に留まった。
間違いなく、美味しい。
パッケージを見ただけで、
そう確信できた。
私は迷わず、
ふたつ手に取る。
ひとつで足りるかどうかなんて、
考えなかった。
ただ、なんとなく。
———仕事の休憩中。
車の中で箱を開ける。
ザクッ、ザクッと軽い音。
思った通りに、美味しい。
あっという間に、
一箱を食べ終える。
甘さが喉を通り、
満腹でもないのに、
満たされた気になる。
そして、もう一箱を見つめる。
少しだけ迷って、
私はそれを袋にしまった。
ひとつで、十分だった。
美味しかった。
でも、心は静かなまま。
あの日のパンと、同じだ。
全部あるのに、
どこか足りない。
そのまま車を走らせ、
次の店舗へと向かう。
店に入ると、
いつも笑顔で受付をしているスタッフが、
その日は少しだけ曇った表情をしていた。
一瞬、目が合う。
ほんの少しだけ、胸に引っかかる。
私は、
さっきしまった一箱を思い出す。
車に戻り、
箱を取り出す。
深く考えず、
ただ、なんとなく。
「お疲れ様。何かあった?
これ、美味しいから食べな!」
差し出した瞬間、
彼女の顔がぱっと明るくなる。
「えっ、いいんですか!?
嬉しい~、ありがとうございます!」
両手で箱を受け取る仕草が、
さっきよりも少しだけ軽く感じた。
曇っていた表情に、
ゆっくりと色が戻っていく。
目元がやわらぎ、
口角が上がる。
たったそれだけのことなのに、
空気が少しだけ変わった気がした。
特別なことをしたわけじゃない。
余っていた一箱を渡しただけ。
それでも、
胸の奥に残っていた、
あの小さな渇きが、
わずかに滲むのを感じた。
満たされたわけじゃない。
でも、
心のどこかに、
ほんのり色が差した気がした。
** はんぶん **
それから数日後。
夕飯を食べ終え、
仕事用のバッグを片付けようとしたとき、
中にあった小袋が目に留まった。
あの日、お菓子を渡したスタッフが、
照れくさそうに
「この前のお返しです」と、
手渡してくれたものだ。
手のひらサイズの、
丸いバウムクーヘン。
透明な袋越しに見える、
幾重にも重なった年輪のような模様。
私はそれを手に取り、
リビングにいる
こどものところへと向かった。
「これ、貰ったからあげる。
美味しいから食べてごらん」
「えっ、いいの?おいしそう!」
満腹のはずなのに、
こどもは目を輝かせて袋を開ける。
小さな手で丸いそれを持ち、
少しだけ指先に力を入れる。
やわらかな生地は、
抵抗もなく、すっと割れた。
「はい、パパもたべな!」
差し出されたのは、
きれいな半円。
「えっ、全部食べていいんだよ?」
そう言いかけた私の言葉を、
こどもが笑って遮る。
「ううん、はんぶんこしよ!」
その無邪気な声に、
私は一瞬、言葉を失う。
あげた側だったはずなのに。
いつの間にか、
もらう側になっていた。
「嬉しい……ありがとう!」
そう言って、半分を受け取る。
甘い匂いがふわりと立ちのぼる。
やわらかな生地を口に運ぶと、
しっとりとした甘さが、
ゆっくりと広がった。
目の前では、
こどもが自分の半分を頬張っている。
その横顔は、
満ち足りた表情だった。
ふと、こどもが
食べかけのそれを掲げて言う。
「ねぇ、バウムクーヘンって
虹みたいな形だね!」
その言葉に、
胸の奥がはっとする。
半分になった丸。
欠けたはずなのに、
そこにはやわらかな弧がある。
あの日のパン。
半分にちぎられた断面。
あの帰り道。
——ああ。
そういうことか。
手の中の半円を、
私はしばらく見つめていた。
** ひとり **
高級な外車。
ブランド物の服。
有名店の料理。
タワーマンション。
それを手に入れたとき、
人は思う。
——これで幸せだと。
でも。
徒歩で何キロも歩いて学校に通う、
異国のこどもの話を
聞いたとき。
おもちゃも勉強道具も買えない家庭を、
目にしたとき。
満腹を知らないこどもがいると、
知ったとき。
家を持たず、
外で眠る人がいる現実に、
触れたとき。
掴んだはずの幸せは、
指の間から静かにすり抜けていく。
心に残るのは、
少しの湿り。
達成感でも、優越感でもない。
ただ、胸の奥が、
じわっと濡れるような感覚。
虹は、乾いた空には現れない。
空気が湿り、
そこに光が差したときにだけ、
あの弧は空に浮かぶ。
光だけでも、
湿りだけでも、
虹は生まれない。
ふたつが重なったときにだけ、
空に色が現れる。
もしかすると——
幸せも、同じなのかもしれない。
** ふたり **
休日の午後。
温まりすぎた部屋の空気を入れ替えようと、
窓を開け、庭に出る。
隣の家の芝は、相変わらず青々としていた。
寒い季節にも関わらず。
豪邸。
外車。
整えられた庭。
ずっと、劣等感を抱えていた。
けれど。
庭に出てきた奥さんの、
少し曇った表情を見たとき、
私は声をかけずにはいられなかった。
「何かありましたか?」
そのひと言で、
奥さんの目がわずかに揺れる。
堰を切ったように、
言葉がこぼれはじめた。
子育ての不安。
夫への不満。
思い通りにならない毎日。
完璧に見えていたその庭の向こう側にも、
小さな揺らぎがあった。
私は、ただ聞いた。
答えを出そうとしたわけでも、
励まそうとしたわけでもない。
ただ、
その重さを、
そっとはんぶんこするように。
言葉が尽きるころ、
奥さんは小さく息を吐いた。
さっきよりも、
少しだけ軽い表情で。
曇っていたその顔に、
ゆっくりと色が戻っていく。
まるで、
湿った空に虹がかかるように。
そのとき、
私はふと空を見上げた。
あの日、
先輩とパンを分け合った帰り道。
こどもと、
バウムクーヘンをはんぶんこした夜。
そして、
今ここで誰かの重さを少しだけ受け取った時間。
どれも、
ほんの少しだけ、
誰かと分け合った瞬間だった。
幸せは、虹のような形をしている。
追いかけても、近づけない。
掴もうとしても、掴めない。
でも。
湿った空気に光が差したとき、
虹はそっと姿を現す。
あたえて。
もらって。
わけあって。
虹の形は、いつもはんぶんこ。
そしてきっと、
幸せの形も、いつもはんぶんこ。