** 錨の感情 **
「もぉーっ!いいかげんにして!!」
耳に残るのは、
自分の声の余韻。
胸の奥に突き刺さるような、
空気の冷たさ。
泣きじゃくるこどもの声が
確かに響いているのに、
私の世界は、
世界から切り離されたみたいに、
ツンと静まり返っていた。
お気に入りのコップじゃなきゃイヤ。
服を着たくない、
帰りたくない。
ごはんも、お風呂も、抱っこもイヤ。
全部イヤ。
一日中、
何をしてもうまくいかなくて。
怒りたくないのに、
気がつけばまた怒っていた。
「どうして、
こんなに怒ってばかりなんだろう」
「なんで、
ちゃんとできないんだろう」
寝息を立てる
小さな背中を見ながら、
心の中でつぶやく。
「ごめんね…」
「ほんとは、大好きなのに……」
——私じゃなくて、他のママだったら、
もっと優しく子育てできたのかな。
——あなたが他の子だったら、
私はうまく付き合えたのかな。
そんなこと、
思いたくなんてなかったのに。
その言葉は、
水面に落ちた小さなコインのように、
ゆらゆらと揺れながらも
確実に、
胸の奥の深いところへと
沈んでいく。
やがてコインは底に着き、
静かな暗闇から、
気泡のように
そっと浮かび上がる言葉がある。
「……産んでしまって、ごめんね」
** 波の音 **
次の日も、
やっぱり思うようにはいかなくて。
朝の準備もイヤイヤ。
ごはんも食べない。
着替えも進まない。
私の中の糸が、
またぷつんと切れた。
「…もう、なんなの、ほんとに……」
誰も返すはずのない
その言葉に、
ふいに時が止まる。
**そうだ、ぼくはママを助けにきたんだった**
空耳のように、
ふと聞こえた。
誰かの声のようで、
誰の声でもないような。
思わずこどもを見たけれど、
彼は何事もなかったかのように、
スッと自分で着替えをはじめていた。
……今の、なんだったんだろう。
気のせい?
夢?
確信は持てなかった。
けれど、
胸の奥にだけ
不思議なあたたかさが残った。
** 宝の地図 **
夜。
こどもの寝顔を見つめながら、
無意識にスマホを開く。
検索窓に打ち込んだのは——
「こども 生まれる前 記憶」
そういえば、
昔聞いたことがあった。
『胎内記憶』
生まれる前のことを語る
こども達の、不思議な話。
「ママの笑顔がかわいくて来たんだよ」
「たくさんのママがいたけれど、
いちばんキラキラしてたから選んだの」
「神さまにお願いして、
ママのところに行かせてもらったんだ」
まるで絵本のような言葉。
あの頃は半信半疑で、
信じることなんてできなかった。
でも今は……
もしかしたら、と思える。
昨日の空耳のような言葉を思い出すと、
それがまったくの妄想とも
思えなくなっていた。
** 助けの舟 **
次の日。
昨日の言葉が、
頭の片隅に残ったままの朝。
積み木をして、
おままごとをして、
ふいにお絵描きを始めたこどもが、
一枚の紙に色を重ねていく。
そこには、
泣いている人と、
その人を見つめる
たくさんのこども達。
そして、
空から続く虹のすべり台が
描かれていた。
「これ、なあに?」と聞くと、
こどもはクレヨンを握ったまま、
当たり前のように答えた。
「これは、おそらのことだよ」
「あのね、
ママが泣いてたの、みえたの」
「すべり台があって、
すべってママのところに来たの」
「他にもね、
行きたいって子がいっぱいいたけど、
ぼくがいちばん行きたいって言ったの」
「僕がね、ママを守ってあげたかったの」
その顔は、
ふざけてもないし、
真剣でもない。
ただいつも通りに、
自然に、
大好きなママに伝えるように。
胸がぎゅっと締め付けられた。
昨日のあの声も、
きっと、
ただの空耳なんかじゃなかったんだ。
この子は——
本当に私を『選んで』来てくれたんだ。
** 海に眠る宝物 **
私はきっと、
子育ての中で
「表(おもて)」の面ばかりを
見ていたのかもしれない。
うまくいかない。
イライラする。
怒ってしまう。
そんな面ばかり。
でも、
こどもの存在が教えてくれた。
その「裏(うら)」の面には、
ずっと隠れていた気持ちがあったんだと。
悲しい思いをさせたくない。
困ってほしくない。
どうか幸せでいてほしい。
——その願いが、
私を動かしていたのだと。
怒りも、
涙も、
全部が愛の裏返し。
どちらも確かに
私の感情で、
どちらもあって当然。
だけど、
あの日のこどもの言葉が、
沈んでいた私の中のコインを
ひっくり返してくれた。
裏に刻まれていた想いに、
光を当ててくれた。
私は、
勘違いしていたのかもしれない。
こどもは、
私が素敵なママだから、
生まれてきてくれたんじゃない。
そうじゃなくて——
私を、
『素敵なママにしてくれるため』に、
この子は生まれてきてくれたんだ。
泣いて、
怒って、
迷って、
立ち止まって。
その全部を通りながら、
私は少しずつ
「ママ」になっていく。
きっとこれからも、
私の心の海には
たくさんの気持ちのコインが
落ちていく。
イライラしたり、
泣かせてしまったり、
また「ごめんね」と
思ってしまうことだってあるだろう。
そのたびに――
暗い底から、
気泡のように
言葉が浮かんでくる。
でも、今度は——
「生まれてきてくれて、ありがとう」
それは、
どんな感情のコインにも隠れている、
私のいちばん大切な想いだ。
こどもが選んでくれた
この場所で、
私は「ママ」として生きている。
——あなたを大切に想う、
私があなたのママでよかった。
——私を大切に想ってくれる、
あなたが私のこどもでよかった。
その想いを胸に、
私は未来へと漕いでいく。
心に沈んだたくさんのコインを、
宝物だったと思える未来へと——。