* さがしものの指輪

** ぬくもり ** 

吐く息が白く色づく夜。
赤くなった手をこすり合わせながら、
娘と並んで道を歩く。

「ママ、はい!」

娘が小さな手を差し出してくる。
その手は、
外の冷たさを忘れるほど、あたたかい。

「……あったかい」

そう言うと、
娘は得意げに笑いながら、
ぎゅっと手をにぎり返してきた。

居酒屋の入り口には、
暖簾を挟むように
赤提灯が二つ並んでいる。

ぼんやりと光る赤い灯りは、
どうしてこんなにも
あたたかく感じるのだろうか。

冷たい空気の中で、
私たちの影を
やさしく染めていく。

そこは、
ママ友の家族が営む居酒屋だった。

「たまにはこども連れて集まろうよ!」
と誘われ、

気がつけば、
笑い声と湯気で曇る窓の向こうに、
街の明かりが
ゆらゆらと滲んでいた。

「うちの子ね、
 この前ダンスでセンターに選ばれたの。
 でも、たまたま休んだ子が多くて、
 運が良かっただけなんだけどね」

「うちは絵がコンクールで入賞したらしくて。
 まぁ、小さいころから
 絵が好きで描いてたから、
 きっとそのせいもあってだよ」

「うちは最近、
 プログラミングにハマっちゃって。
 毎日ご飯も食べずに
 パソコンばっかり。
 ほんと困っちゃう」

みんな眉間に
少しだけシワを寄せながら笑う。

自慢と謙遜のあいだを
行き来するような声で。

私は
「すごいね」
「才能だね」
「将来が楽しみだね」

と笑顔で返しながら、
ふと視線を娘に向ける。

娘は友達と笑いながら、
仲良さそうに、
小さな手で唐揚げを取り合っていた。

その光景を
ぼんやり見つめていると、
胸の奥を
冷たい隙間風が通り抜けていく。

(うちの子には……何がある?)

必死に探す。

勉強、
運動、
習い事、
特技——

誰かに
「すごいね」と
言ってもらえるようなものを、
ひとつでも思い出そうとする。

けれどそれらは、
降りはじめの雪の粒みたいに、
手のひらに乗った瞬間、
掴もうとする前に
すぐに消えていってしまう。

思い返してみれば、
私もそうだった。

勉強も、
運動も、
どれも「普通」で。

何かに選ばれることもなく、
いつも真ん中にいた。

「普通の私から生まれた娘も、
 きっと普通なんじゃないか」

そんな考えが
頭をかすめたとき、

さっきまで小さかった雪の粒は、
少しずつ大きくなり、
静かに積もりはじめる。

それは音もなく広がっていき、
気づかぬうちに、
心の灯りを覆い隠していった。

「お待たせしましたー!
 焼き牡蠣でーす!」

店員さんの声が響き、
湯気を立てた皿がテーブルに並ぶ。

香ばしい匂いが広がる中、
私は作り笑いを浮かべながら、
心の奥でまたひとつ、
深く白い息を吐いた。

** 娘が持っていたもの **

あの夜から、
ほんの数日後のことだった。

朝から、
吐き気と腹痛が
波のように押し寄せてくる。

ウイルス性胃腸炎。

過去にも経験がある、
あの独特のだるさと不快感で、
すぐにわかった。

食べても、
飲んでも、
体が受け付けない。

上からも下からも流れていき、
何かを摂るたびに、
体の中の力が
少しずつ削られていくようだった。

こどもにうつさないよう、
私は寝室にこもり、
布団に身を沈める。

カーテンの向こうから差し込む
淡い光でさえ、
どこか遠く感じた。

リビングから聞こえてくる
食器の音やテレビの声は、
自分とは関係のない世界のことのよう。

学校から帰ってきた娘は、
そっとドアを開けては、
何度も、
何度も、
何度も、
様子を見に来た。

「ママ、大丈夫?」
「お水持ってこようか?」
「おかし食べる?」

そのたびに、
凍えていた心の奥のどこかが、
ほんの少しだけ、
あたたまるのを感じた。

そしてある時、
娘は静かに枕元に立っていた。

小さな手の中には、
お祭りで手に入れた、
赤い大きな石のついた
おもちゃの指輪。

いつも大事にして、
宝箱にしまっていたはずのもの。

「これ、ママにあげる。
 ……私の宝物」

「ママが
 早く元気になりますように」

娘はそう言って、
少しだけ息を弾ませながら笑った。

照れながらも、
迷いのない目で。

胸の奥に、
熱がせり上がる。

「……ありがとう。
 あなたはやさしいね」

言葉にした瞬間だった。

胸の奥で
降りつづいていた雪が、
ふっと
止まったようだった。

白く閉ざされていた場所に、
小さなぬくもりが
灯る。

それは、
どこかで知っている温度だった。

——あの頃、
私も受け取ったことのあるもの。

** 私がもっていたもの **

小学校3年生の教室。

授業中、
隣の席の女の子が
突然吐いてしまった。

「うわっ、ゲロだ!」
「くっさー!」

イスを引く音が
一斉に鳴って、
その子を中心に、
大きな円ができていく。

息をのむ女子。
面白がりたいけど、
どこか戸惑っている男子。

誰も近づけないまま、
空気が固まった。

でも、
私は不思議と落ち着いていた。

(苦しいよね。
 恥ずかしいよね。
 でも、大丈夫だよ。)

その思いが
胸に灯ったとき、
体は勝手に動いていた。

給食台の引き出しから
トイレットペーパーを取り出し、
床にしゃがみ込む。

うつむくその子の表情は
見ないように。

ただ、
静かに、
手だけを動かした。

少し遅れて、
先生が雑巾とビニール袋を抱えて
駆け寄ってきた。

「ありがとう。助かったよ」

そう言いながら、
一緒になって
手を動かした。

終わって席に戻っても、
胸は静かなままだった。

何かを
やり遂げた気持ちもなく、
ただ授業が
再び流れていくのを
眺めていた。

***

その日の夕方。

家に帰ると、
母がキッチンで
夕飯の準備をしていた。

振り返った母の表情は、
いつも以上にやさしかった。

「さっきね、
 先生から電話があったの」

「お友達が大変だったとき、
 あなたが手伝ってくれたって」

「誰にでもできることじゃないって、
 先生も褒めてたわよ」

母は
私の頭に
手を置いた。

あたたかくて、
やわらかい手。

「ありがとう、
 あなたはやさしいね」

その声が、
胸の奥に
ゆっくり染み込んでいく。

***

——そうだ。

あの時、
私はたしかに
『なにか』を持っていた。

けれどそれは、
見せびらかすでも、
誇るでもないものだったから、

誰にも気づかれずに、
自分でも気づかないまま、
雪の下に
そっと埋もれていたのかもしれない。

そして今。

娘の言葉と、
あたたかい小さな手が、
その雪に、
そっと触れた。

じわり、と
溶けていく。

そして、
かすかに光が滲みだす。

忘れていた灯りが、
息を吹き返すみたいに。

** 光と熱 **

「才能の原石」という言葉がある。

いつの間にか私たちは、
光って見えるものばかりを
追いかけていたのかもしれない。

ルビーは綺麗で、
エメラルドは特別で、
ダイヤモンドには価値がある。

そうやって、
目に見える輝きだけに
心を奪われていた。

でも本当は、
もっと近くにあった。

声にも形にもならないまま、
そっと息づいている光が。

まだ名前の付いていない
誰かの可能性に
そっと気づける人がいる。

曇った心に寄り添い、
冷たくなった場所を
少しだけあたためて、
もう一度
やさしく光らせる人がいる。

「きれいだね」と
素直に感じ、
受け取ったその光を、
惜しみなく
誰かに手渡せる人がいる。

どんな宝石も、
ひとりでは輝けない。

見つけられて、
磨かれて、
大切に想われて、
誰かの手に渡る。

その関わりの中で
光になる。

そして、
そこにはいつだって
輝きと一緒に、
あたたかさが流れている。

輝きだけじゃない。

触れた場所には、
熱が残る。

支える手にも、
そっと寄り添うまなざしにも、
たしかな価値がある。

そして私たちは、
きっともうすでに、

誰かの光を灯しながら、
誰かに灯してもらっているのかもしれない。

** 探し物 **

体調が戻ってきた、
ある休日の朝。

まだ部屋の空気は
少し冷たく、
窓辺の光だけが
そっとあたたかかった。

私は
引き出しの奥を探していた。

「たしか、この辺に……」

指先が、
細くて柔らかいものに
触れる。

ああ、あった。

そのまま、
娘にもらった
赤い指輪を
手に取る。

大きな赤い石が、
光をひとつ含んで、
静かに揺れた。

「おかげで元気になったよ!
 ありがとう。これ、返すね」

手渡すと、
娘は一瞬だけ
寂しそうにまばたきをした。

でもすぐに、
宝物が手に戻った嬉しさが
頬にぽっと灯る。

娘は
指にはめてみる。

「うん……
 やっぱり大きいね~」

指輪は
小さな指の上で、
カクンと揺れた。

「そうだよね……
 ちょっと、貸してごらん?」

私は
さっき見つけた紐を取り出し、
赤い指輪を
そっと通した。

「わー、
 かわいい~!」

娘は
光を受けて揺れる
赤い指輪のペンダントを見つめながら、
ワンピースの裾を
ふわりとなびかせ、
くるりと舞う。

その動きと一緒に、
冷たい空気が
やさしくほどけていく。

カーテンが
ふわりと揺れ、
部屋の中に
やわらかなぬくもりが広がる。

「ママとおそろいだね!」

舞い終えた娘がそう言って、
私の胸元に光る
青い指輪のペンダントを
見上げる。

「そうだね、
 ママとおそろいだね」

胸の前で、
赤と青が
小さく揺れ、

ふたつの光が
ひとつのぬくもりになって
溶け合う。

まるで、
胸の奥で
小さな灯が
そっと姿をあらわしたみたいだった。

才能は、
輝きだけじゃない。

誰かを照らすばかりが
すべてじゃない。

触れたところを、
そっと
あたためていくような熱も、
きっと、
それも才能なんだ。

そっと触れて、
誰かの冷えたところを
あたためる。

そんな才能が、
この子には
もう宿っていた。

この子の胸の、
いちばん見える場所に、
どうか、
いつまでも、
あり続けますように。

どこかに
置き忘れてきませんように。

私はそっと、
ペンダントの結び目を
もう一度だけ
たしかめる。

光は
熱を生み、

熱もまた
光を育てる。

外では、
風が
やさしく流れていた。

どこかで、
誰かが吐く
白い息が、
淡い光のように
空へと消えていく。

それは、
冷たい世界の中で、
人のぬくもりが見える
ほんの一瞬の輝き。

たとえ
すぐに消えてしまっても、
そのぬくもりは
世界のどこかで
今も息づいている。

  • この記事を書いた人

Robü


子育てを頑張る君へ――

「Trace of Mana」は、
私が君に贈る、
最初で最後の物語。

冷たい社会。
上手くいかない毎日。
ふいに訪れる孤独。

この物語は、
君に答えを教えるものではない。

でも、君ならきっと、
気づく事ができるはず。

君の中にある『それ』に。

さあ、行こう。
君自身が感じて歩く、
君だけの冒険の旅へ。


* はじまりのTrace
※「はじまりのTrace」には、命や心の限界に触れる描写が含まれます。
読むのがつらいと感じたら、無理に進まなくて大丈夫です。