* 過去から届く光

** 暗い夜 **

こどもを迎えに行った帰り道、
街の灯りがひとつ、またひとつと灯り始めていた。

車の窓越しに流れる景色。
西の空はまだほんのりと橙(だいだい)を残し、
その向こうでは、夜の青が静かに広がっていく。

——陽が落ちるのが、早くなったなぁ。

そう感じて、思わず空を見上げる。

月が姿を見せない今日の空は、
主役のいない舞台のように、
静かで、どこか不思議な気配をまとっていた。

けれどその空白を埋めるように、
いくつもの星たちが、淡く滲み始めている。

まるで誰かの背中を追うように、
ひとつ、またひとつと光を宿していく。

群青と茜が溶け合うその時間帯は、
どこか懐かしくて、切なくて。

胸の奥の深い場所を、
そっと揺らしてくる。

後ろのチャイルドシートから、
「今日のごはんはなぁに~?」と娘の無邪気な声。

ルームミラーに映るその顔に微笑みながらも、
私の心はまだ、あの空に引き寄せられていた。

——こんな空を見るの、いつぶりだろう。

** あなたのために **

こどもが寝静まったあと、
お気に入りの、赤い花柄のカップに温かいミルクを注ぎ、部屋の明かりをそっと落とす。

静けさが、部屋の輪郭を和らげていく。

カーテンの隙間から漏れた、細い光。
その光に誘われるように、私はカーテンを開ける。

昨日の雨がすべてを洗い流したのだろう。
空はどこまでも澄んでいて、
星の光が真っすぐに、静かに降り注いでいた。

私はその光に包まれながら、
しばらく立ち尽くしていた。

数えきれないほどの小さな光が、
まるで私を見守るように瞬いている。

その全てが
「大丈夫?」
と優しく語りかけてくるようだった。

気づけば、私は窓を開けていた。

ひんやりとした風が頬を撫で、
どこからか金木犀の香りが流れ込む。

その香りに導かれるように、
私はベランダへと歩み出る。

手すりにそっと触れ、
もう一度空を見上げる。

星たちは、静かに、でも確かに輝いている。
その光の一つひとつが、
私の心の奥へと真っすぐに届いてくる。

——「何か、あったの?」

そんなふうに言われた気がして、
私は小さく息を吐いて、
空に向かって問いかけた。

「私の子育てって……
 ちゃんと報われるのかな。」

『あなたのために言っているのよ』
『あなたのためを思ってやってるの』

叱ることも、
我慢することも、
控えていることも、
頑張っていることも。

その全部が、あの子のためだった。

だけど、
あの子は泣いて、怒って、逃げてはふざけて。

全く届いている気がしない。

——届かない「あなたのため」に、
意味なんてあるのかな。

夜風が髪を揺らし、
星の光が、私の目の奥に静かに滲んでいった。

** わたしのために **

星を見上げているうちに、
ふと、母の顔が浮かんだ。

——お母さんも、
私に「あなたのために」って、
何度も言ってたな。

思い出すのは、あの日の朝。
まだ外が暗いうちから台所の明かりをつけて、
湯気の立つみそ汁の鍋の隣で、
お弁当箱におかずを詰める母の背中。

「早く起きなさい」
「忘れ物はない?」

こどもの頃の私にはうるさくて、
わざと聞こえないフリをすることもあった。

母が準備したご飯に口をつけずに、
家を出ることもあった。

玄関で靴を履きながら、
「うるさいな、もう!」と吐き捨てるように言って、わざと音がするように扉を閉めた。

その風にあおられて、
金木犀の香りがふっと広がる。

今もあの香りを嗅ぐたびに、
あの朝の空気を思い出す。

「行ってらっしゃい」も、
「おかえり」も。

いつも母の独り言にさせてしまっていた、
あの頃を。

あのときの母は、
少しだけ悲しそうに笑っていた。

あの笑顔の意味も、
今ならわかる。

寝不足の朝も、
叱りすぎた夜も、

こどものために心をすり減らしながらも、
笑おうとする気持ちも。

きっと母も、
同じだったんだ。

私の中には、
母の「あなたのため」が息づいている。

あの背中が、
今の私をつくっている。

星空を見上げながら、
胸の奥に浮かんだ言葉を、
静かに夜空へと送る。

「……あの時は、ごめんね。
 ちゃんと届いてたよ。
 ありがとう。」

遠い夜空に、
小さな光が流れた。

まるで、
誰かの願いが叶ったかのように。

** あなたたちのために **

朝。
カーテン越しにやわらかな光が差し込み、
私はいつもより少しだけ、
深く息を吸い込んだ。

まだ眠たそうなこどもの髪をなでながら、
「今日も行ってらっしゃい」と言う声が、
いつもより少しだけ穏やかだった。

たとえ伝わらなくても、
伝わることを信じて向き合っていこう。

そうすればきっと、
いつか伝わる日がくる。

そう思えた朝は、
不思議と世界がやさしかった。

***

昼過ぎ、
仕事中にスマートフォンが震えた。

保育園からの着信。

画面を見た瞬間、
胸がきゅっと締めつけられる。

「おひる寝のあと、
 ちょっと熱があって……」

私はすぐに母へ電話をかけた。

「ごめん、
 お迎え行けそうにないの。
 代わりに行ってもらえる?」

電話の向こうの声は、
昔よりずっと柔らかかった。

「わかった。
 あの子の好きなゼリーも、
 買って冷やしておくね。」

短いやり取りの中に、
母らしい優しさが滲んでいた。

***

夕方、家に帰ると、
キッチンから出汁のいい香りがした。

母が作ってくれた夕飯が、
テーブルの上に整然と並んでいる。

「おかえり」

振り向いた母の笑顔に、
私は小さく笑って、
「ただいま」と答えた。

母はエプロンの裾で手を拭きながら、
「ちょっと微熱はあるけどね、
 今はぐっすり寝てるよ。
 ご飯もちゃんと食べて、
 ゼリーもペロリよ」と微笑んだ。

その言葉に、
胸の奥がじんと温かくなる。

私はふと、
キッチンに立つ母の横顔を思い出した。

あの頃も、
今も。

母の優しさは、
「私のため」から
「私たちのため」へと形を変えて、
 途切れることなく続いている。

母の隣に座ると、
湯気の向こうで、
ほっとしたように笑う顔があった。

その笑顔を見ながら、
胸の奥に小さな灯りがともる。

** わたしたちのために **

お風呂から上がると、
家の中はしんと静まり返っていた。

こどもはまだ夢の中。
小さな寝息が、
やさしく時間を溶かしていく。

私はキッチンでホットミルクを温める。
白い湯気がゆっくりと立ち上がり、
カップのふちでゆらめいた。

母の分も並べようとしたとき、
リビングの方から声がした。

「ねえ、見て。星が出ているわ」

振り向くと、
母がカーテンを少し開けて、
空を見ていた。

私はカップを二つ持って、
母の隣へと向かう。

窓を開けると、
冷たい空気がふわりと頬を撫でた。

空には、
息をのむほどの星々。

昨日の雨に洗い流されたのか、
夜空はどこまでも澄んでいた。

母がバルコニーへ出る。
私もあとを追う。

その手に、
母の赤い花柄のカップを
そっと手渡した。

「お、ありがとう」
「このカップ、お気に入りなんだ」

そう言って、
母は小さく微笑み、ぬくもりに口をつけた。

「子育てはどう?」

母が少し笑いながら尋ねる。

「……思ってたより、
 ずっと大変。」

空を見つめたまま答えた。

「届かないなって、
 思うことばかりで。」

母は黙って頷いたあと、
やわらかな声で言った。

「ねぇ、知ってる?
 今見てるあの星の光ってね、
 何十年も、
 何百年も前に放たれたものなのよ。」

母の言葉に、
私は思わず顔を向けた。

「星は最初から
 光れるわけじゃないの。

 いろんなものを集めて、
 ぶつかって、

 やっと自分の力で
 輝き出す。

 でも、光っても
 すぐには届かないのよ。

 何年も、
 何十年も、
 何百年もかけて、

 ようやく人に届くの。」

母の声は、
夜風と一緒に
静かに流れていった。

「子育ても、
 きっと同じね。

 誰かのためを想って、
 いろんなものを積み重ねて、

 やっと光になる。

 そして、
 その光が届くまでには時間がかかる。

 でも、
 光ればいつか必ず届くの。」

私はホットミルクを
ひとくち飲んだ。

やさしい甘さが、
胸に沁みる。

「今見えている星の光は、
 過去の光。

 もしかしたらね、
 お母さんのお母さん、
 そのまたお母さんがたちが
 放った光かもしれないのよ。

 その光が、
 今もこうして
 私たちの暗い夜空を
 照らしてくれてるの。」

「大丈夫?」
「何か、あったの?」ってね。

母はゆっくりと
空を見上げた。

その横顔が、
星明りに照らされて、
穏やかだった。

「だから、
 あなたがしていることもね。

 いつか、
 誰かの夜を照らす
 光になるの。

 たとえ今、
 届かなくても、

 あなたの
 「こどもを想う気持ち」が、

 こどものこども、
 そのまたこどもたちにまで
 届く日が、
 きっと来るのよ。」

母の言葉が、
胸の奥に
静かに降り注いでいく。

そのとき、
寝室のドアが小さく開いた。

「……なんか、
 いい匂いがする~」

眠たそうな
『息子』の声に、

私と母は
顔を見合わせて、
そっと笑った。

窓の外では、
秋の風がやさしく流れ、
ふわりと金木犀の香りが漂う。

それはまるで、

何年も、
何十年も前に放たれた想いが――

いま、
私たちのもとへと
届いたかのようだった。

  • この記事を書いた人

Robü


子育てを頑張る君へ――

「Trace of Mana」は、
私が君に贈る、
最初で最後の物語。

冷たい社会。
上手くいかない毎日。
ふいに訪れる孤独。

この物語は、
君に答えを教えるものではない。

でも、君ならきっと、
気づく事ができるはず。

君の中にある『それ』に。

さあ、行こう。
君自身が感じて歩く、
君だけの冒険の旅へ。


* はじまりのTrace
※「はじまりのTrace」には、命や心の限界に触れる描写が含まれます。
読むのがつらいと感じたら、無理に進まなくて大丈夫です。