** 伝わらない風 **
「ママ」
「なあに?」
「大好き!」
皿洗いをしながら、私はいつものように笑って返す。
「ママも大好きだよ~」
最近、こどもの『好きの確認』が増えた気がする。
それと同時に、もっと小さかった頃の笑顔が、
少し減ったような気もしていた。
何か不安なことでもあるのかな?
それとも『寂しい思い』をさせちゃってるのかな?
そんなことに考えを巡らせていると、
「ママー、せんぷうき、ぜんぜん風こないよー!」
えっ?と顔を上げる。
扇風機はいつも通りに動いている。
「風、強くしてみたら?」
「ピッ、ピッ……やっぱりこないよー」
濡れた手を拭いて近づくと、
羽は一生懸命に風を切っているのに、
たしかに風は伝わってこなかった。
** 伝えたい風 **
その日の夜。
夕食を終えて、私はまた皿洗いをしていた。
リビングのほうからは、
こどもがおもちゃで遊ぶ音が聞こえてくる。
水の中に、こどもが少しだけ残したごはんつぶが浮かんでいた。
その小さなつぶを見つめながら、私はふと考える。
私は、いつもこどもの好きな料理を作っている。
「おいしいね」って笑ってほしくて、
苦手なものは小さく切って、味を整えて。
本当は辛い料理が好きだけど、
こどもが喜んでくれるなら、それでいい。
一緒に遊んだり、
いろんな場所へ行ったり、
いろんな乗り物に乗せて、
いろんな経験をさせてあげたり。
「大好きだよ」って、毎日ちゃんと伝えている。
こどもが幸せでいてくれるように、
そのために、私は頑張っているつもりだった。
……なのに、あの子は何度も「大好き」って言ってくる。
まるで、私の『愛』を確かめているみたいに。
もしかしたら、私の想いは、
こどもに伝わっていないのかもしれない。
ちゃんと届いていると思っていたけれど、
こどもの心までは届ききっていないのかもしれない。
まるで――
羽を一生懸命に回しているのに、
風が届かない扇風機みたいに。
でも、これ以上どう伝えればいいんだろう。
言葉も、行動も、全部込めてきたはずなのに。
流れる水の音の向こうで、
こどもの笑い声が小さく響いていた。
** 懐かしい風 **
ある蒸し暑い午後。
私はリビングで、洗濯物を畳んでいた。
陽にあたったタオルの匂いと、遠くで鳴くセミの声。
その背中に、ふいに小さな腕がまわった。
「ママー!」
「うわっ、びっくりした~」
こどもが、後ろから抱きついてきた。
汗ばんだ頬が、私の背中にくっつく。
「暑いよ~、くっつかないで~」
私が笑いながら言うと、
こどもはイタズラっ子みたいな笑みを浮かべた。
けれど、その表情に――
ほんの一瞬だけ、
悲しさの風が吹いたのを、私は見逃さなかった。
……最後に、こどもを抱きしめたのはいつだったっけ。
気づけば、少しずつ遠ざかっていた。
ひとりで歩けるようになって、
抱っこもおんぶもいらなくなって、
少しずつ体が大きくなって。
私が大好きだった『愛の伝え方』——
それは、この子に最初に会ったときに、
私がした愛の伝え方。
いつの間にか、忘れてしまっていたんだ。
細くて柔らかい髪を撫でる感覚。
包み込めるくらい小さくて、あたたかい手。
抱きしめたときに頬をすりよせる、
あのモチモチのほっぺ。
ミルクの香りが残る首元に顔をうずめたときの、
あの安心する匂い。
そして——
真っ直ぐに見上げてくる瞳。
言葉では「大好き」って伝えてきたけれど、
あの小さな体に、どれくらいぬくもりを返せていただろう。
返事をする時はいつも何かをしながらで……。
でも今、心の奥で、
小さな灯りがふっとともる。
その光はまだ弱いけれど、
たしかにあたたかくて――
どこか懐かしい風が、そっと胸を撫でていった。
** 伝わる風 **
次の日のお昼前。
窓から差し込む光が、キッチンの床を淡く照らしている。
私はお昼ごはんの準備をしていた。
トントントン、と
まな板の上で包丁が小気味よく鳴る。
リビングからは、
おもちゃを並べるこどもの声が聞こえていた。
「ママ」
「なあに?」
いつものやり取り。
でも、今日はその声に、私は包丁の手を止めた。
そして、ゆっくりこどもの方へ向き直る。
「ママ、大好き!」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥にある小さな灯りのぬくもりが広がった。
私はキッチンを出て、
こどものそばへと歩いていく。
「こっちおいで」
しゃがみこむと、
こどもが少し照れくさそうに笑った。
私は両腕を広げて、そっと抱きしめる。
「うー、くるしい~」
そう言いながらも、
こどもの手が私の服の裾をぎゅっと握った。
お互いの呼吸が重なる。
窓の外から、やわらかな風が入り込む。
髪が少し揺れて、
その中でこどもがふわっと笑った。
その笑顔は、
いつか私の胸の中で眠っていた頃と、
まったく同じだった。
** 伝える風 **
——ピッ。
足元から小さな音が、静かな部屋に響いた。
次の瞬間、ふわりと風が流れ込む。
カーテンがそっと揺れて、
こどもの髪がやさしく踊った。
「ママー!せんぷうき、かぜくるよー!」
私はこどもを抱いたまま、
思わず顔を見合わせて笑った。
どうして風が来るようになったのか、
私にも、こどもにもわからなかった。
でも——
もしかしたら、扇風機も、
ずっとこちらに風を送っていたのかもしれない。
ただ、伝わらなかっただけで。
そう思った瞬間、
胸の奥が何かに気づいて、じんわりと温かくなった。
もしかしたら、この子も
同じだったのかもしれないと。
風が頬を撫でた。
こどもが風を受けて、目を細めながら笑う。
その顔を見て、
私の胸の中で何かがほどけていった。
そのとき——
ふっと、焦げた匂いが鼻をくすぐる。
「……あっ」
慌ててキッチンをのぞくと、
フライパンの端で卵がほんの少し焦げていた。
私は思わず笑ってしまう。
涙でにじんだ視界の中で、
こどももケラケラと笑っていた。
焦げた匂いが混ざった空気を、
窓の外から吹き込む風がやさしくさらっていく。
私たちのあいだを、
やさしい夏が通り抜けていく。