ノートの前で立ちすくむ私
その日、私は机に向かっていた。
目の前には、真新しいノート。
どのページも真っ白で、
端から端まで、
余計な線ひとつない。
ページをめくる音だけが、
やけに大きく感じられた。
「母になる」ということが、
こんなにも静かで、
こんなにも怖いものだなんて
思わなかった。
どうしたらいいのかも、
どこから始めたらいいのかも分からない。
私はノートを開いたまま、
ただ、じっと眺めていた。
「これが、こどもの人生……」
そう思った瞬間、
鉛筆をにぎる手が、かすかにふるえた。
何を書けばいいのかわからない。
間違えたら、傷つけてしまうんじゃないか。
失敗したら、こどもの未来が歪んでしまうんじゃないか。
もし、
もしも取り返しのつかないことを書いてしまったら——。
その想像だけで、胸がぎゅっと苦しくなった。
だから私は、
書けなかった。
怖くて、
最初の一文字が、どうしても書けなかった。
消しゴム付きの鉛筆
そんな私が、
いつの間にか手にしていたものがある。
それは、鉛筆だった。
ただの鉛筆じゃない。
小さな消しゴムが、ちょこんとついていた。
その意味に気づいたとき、
少しだけ泣きそうになった。
「間違えてもいい」
「あとで、消せる」
「やり直せる」
そんな当たり前のことが、
この小さな消しゴムの中に、
全部詰まっている気がした。
私は、ノートの隅っこに
小さな丸を書いた。
それは、きれいな円じゃなかった。
歪んでいて、少し震えていて、
とても『正解』とは言えない形だった。
それでも——
それは、私がはじめて残した『しるし』だった。
書いた、という事実。
進んだ、という証。
ノートは、もう真っ白じゃなかった。
自信がある人が、持っていなかったもの
しばらくして、別のママと話す機会があった。
彼女はとても堂々としていて、
まるで最初から『答え』を知っているみたいだった。
でも、ふと目に入った彼女の鉛筆には、
消しゴムが、ついていなかった。
「自信しかないから」
そう笑う彼女のノートには、
たしかにたくさんの言葉が並んでいた。
けれどよく見ると、
それは『すべてを正解にするため』に、
何度も上から塗りつぶされた跡だった。
消せないから、
上書きするしかない。
言い訳の線が重なって、
ページは、少しずつ黒くなっていった。
きっと彼女は、
間違いを認めるのが怖かったのだと思う。
間違いが、そのまま『失敗』になる世界では、
完璧でいるしかない。
でもそれは、
息が詰まるほど、苦しい。
消しゴムは弱さの味方
私が持っていた『消しゴム付きの鉛筆』は、
何度も私を助けてくれた。
泣いてしまった夜。
言い過ぎた朝。
ちゃんとできなかった日。
何度も消して、
また書いて、
それでも残った薄い跡。
その全部が、
私の子育てだった。
思い返せば、
間違わずに育てた日なんて、一日もない。
それでも、
間違いながらページを進めた日々が、
私を少しずつ、前に進ませてくれた。
「やり直せる」
そう思えたから、
次の一歩を踏み出せた。
消しゴムは、
失敗をなかったことにする道具じゃない。
弱さを抱えたまま、
それでも進んでいいと教えてくれる、
小さな『やさしさ』だった。
私はいまでも時々、うまく書けないことがある。
だけどもう、書くことを怖がらない。
消しゴムを持っている私は、何度でもやり直せる。
そのことを忘れずにいたい。
自信がないからこそ、持っていたもの
もし今、
子育てをはじめたばかりで、
どうしていいか分からずに立ち止まっているママがいたら——
それは、きっと少し前の私。
不安になるのも、
「ちゃんとできる気がしない」と思ってしまうのも、
全部、あなたが弱いからじゃない。
それは、
この小さな命を、ちゃんと大切にしたいって、
本気で思ってる証なんだと思う。
私もそうだった。
完璧になろうとして、
何も書けなくなって、
ノートの前で、ただ固まっていた。
でも、今ならわかる。
完璧じゃなくていい。
むしろ、その余白があったからこそ、
私はこの子と一緒に、少しずつ育ってこれた。
自信がないってことは、
最初から「一度でうまくいくはずがない」って、
ちゃんとわかっているってこと。
間違えても、
消して、
また書き直せばいいって、
もう心のどこかで分かっているんだと思う。
だからあなたは、
優しくなれる。
柔らかくなれる。
立ち止まって、考えることができる。
それだけで、もう十分。
『消しゴム付きの鉛筆』を持っているあなたは、
気づかないうちに、
子育てにいちばん大切なものを
ちゃんと手にしている。
何度間違えてもいい。
何度でも、書き直せばいい。
消して、また書いて、
ときどき休んで。
一冊のノートを、
あなたらしく、
ゆっくりと埋めていけばいい。
消しゴムで消した跡。
怒ってぐしゃぐしゃになったページ。
にじんだ涙のシミ。
そうやって重ねていく一日一日が、
いつか振り返ったとき、
あなただけの、
こどもと一緒に歩いてきた
かけがえのない物語になっているから。